プロフィール

プロフィール

岐阜県の中濃地域で2歳と3歳の年子姉妹を育てています。夫、私、娘2人の4人暮らし。

仕事は八百津町で米ぬか酵素風呂 健康風呂ゆかりというお店を経営しています。

自己紹介

私の経歴について挿し絵をはさみつつご紹介します。

岐阜県の田舎、杉原千畝や栗きんとんで有名な八百津町に、ごく普通の家庭に長女として生まれました。

赤ちゃんの時は、私の活発な娘とは全然違い、とても大人しい性格だったらしいです。

1歳の頃からアトピー性皮膚炎に悩まされていたそうで、これが30代までいつまでも長引きました。

小学校では男子にいじめられたりした経験を持ちつつも、おかげさまで高校生まで元気に育ちました。勉強は得意だったけど運動はからっきしでした。

高校生の時の転機

高校生の時1つ目の転機が訪れます。

それはある先生の言葉から考えた「私らしさ」でした。

「この学校の高校生たちは頭はよくて点は取れるけれど、みんなつまらない!

昔は天文が好きだったり、昆虫が好きだったり、いろんなことにのめり込んで面白いやつがいっぱいいた。

だけど今はつまらん生徒ばっかりだ。何も好きなことがないのだろうか。

その言葉は、私にとってものすごい衝撃でした。確かに私はそこそこテストで点は取れるけれど、一体何が好きなのだろう。私らしさとは!?

そこから少しずつ私は自分らしさを探し始めました。

田舎に生まれた私は昔から自然が大好きでした。深い緑色が大好きで、緑の匂いを求めていました。

もっと自然のいっぱいあるところはどこだろう。きっとアフリカかな。アフリカのジャングル!!アフリカのジャングルに…違いない!!

…と(笑)、短絡的に思うようになり、アフリカのピラミッドに書かれた象形絵文字の解読の本なんかを読んでいました。

そういえば中学生の頃でしたがアフリカを背景とした絵本を夏休みの宿題で作ったりしていました。

その絵本の内容は、兄弟2人がジャングルに探検し、弟が滝に流されそうになって、お兄ちゃんが必死に助ける…とかいう兄弟愛を描いたものでした(笑)

今から思えば本当にどうでもいいようなストーリーですが、昔の本人は物凄い真剣に書いていました(笑)

そんなことをしたり、アフリカの雑貨屋さんに出かけたりしつつ、アフリカへの想いはどんどこ募っていきます。

大阪外国語大学のスワヒリ語学科に入学

「アフリカ」という私らしさが見つかり、大学の志望校は大阪にある外国語大学のスワヒリ語学科を選びました。スワヒリ語というのは東アフリカのケニアやタンザニアで使われている言語です。

今から思うと親はどういう気持ちで行かせてくれたのか謎すぎますが、とにかく突っ走っていた私はその大阪の大学のスワヒリ語学科に入学してしまいました。

一番最初にアフリカに渡航したのは大学2年生の時、行き先はタンザニアでした。太陽が真上にあり、真っ青の空の下、現地の人の衣装のカンガ、並べられた野菜や果物、全てが鮮やかに目に映りました。

あるNGO団体を通してワークキャンプに行ったのですが、楽しくて仕方なかったです。タンザニアの人たちは本当にフレンドリーで親切!スワヒリ語を通してすぐに仲良くなりました。

1ヵ月程度の旅でしたが、私は「アフリカの毒」に侵され、日本に帰るときは寂しくて仕方なく、絶対またアフリカに来るべしと誓ったのでありました。

大学での学びは本当に面白かったです。アフリカの歴史から、FGM(女性器切除)問題、意外と超簡単に話せるスワヒリ語などなど学ぶ中、一番印象的だった勉強がアフリカのエイズ問題に関する話です。

なんと貧困を背景に性交渉を行ってしまう中で一日に何千人もの人がアフリカでエイズで亡くなっていること、そして何千万人もの孤児たちがいて路頭に迷っていること。

静かな戦争と呼ばれているのがこのアフリカのエイズ問題です。新聞には全然載らないけれど国際問題の中ではとても大きな問題と感じて何か関われることがあればなぁ思うようになりました。

そして私に2つ目の転機が訪れます。

ケニアと日本を繋ぐNGOとの出会い

Tumaini Nyumbani(トゥマイニ・ニュンバーニ:日本語で「希望を我が家に」)というケニアのエイズ患者の自立支援団体との出会いです。

団体とはいってもほぼ一人の先輩がケニアの一人の女性と連絡を取り合って個人的に活動を行っている団体でした。

主な活動は、エイズ患者の人たちが製作したバッグを販売し、その売上をケニアに送金したりすることです。

私はスワヒリ語仲間とその先輩についていって、ケニアで実際のエイズ患者のお母さんたちと話をしてきました…。この体験からの様々な感情は今でも忘れられません。

ケニアの代表のウィニーの住んでいたスラムに泊まった日のこと。

小さな家にはトイレがないので、KASUKUという小さなバケツの中でこそっと用を足したり、真っ暗すぎる部屋の中、あまりきれいではない布団をかぶって小さな子どもたちと眠ったりしました。

スラムに住むエイズ患者のお母さんたちと話をすると、明日食べるご飯のお金を稼ぐことで必死だと。時には2~3日全く食べられない時もあると現地代表のウィニーが説明してくれました。

そんな中、スラムに住む彼女たちは私たちが訪問する時、あったかいチャイを作って出してくれるのです。小学生くらいの子どもが、はいどうぞとご飯を分けてくれるのです。明日ご飯が食べられるか分からないのに…!

私には想像できない凄まじい毎日を送りながら、私にご飯を分けてくれる…。私はその時泣きそうになるのを必死でこらえていました。ケニアの人たちの与える力は素晴らしいです。日本人とは比べ物になりません。

そんないろいろなことを感じながらケニアからバッグを仕入れて日本に帰ってきて、誰もやる人がいないということで、私がその先輩の後を引き継いでリーダーとなって活動していました。

問題だらけの学生NGO団体

ですがこの活動がいろいろと問題だらけ……!先輩がぽっと現地代表と意気投合して作った団体です。20歳前後の学生たちが、現地の代表と連絡を取り合うだけでなんのバックアップもありません。

問題が起こらないはずがありません。例えば建てるだけで終わってしまった孤児院建設問題。もう私にとってはトラウマです。先輩が土地を買って建設できるようにしたということで、全くその後の運営を考えずに、学生だけで孤児院の建設に着手しました。

その後の運営なんて全く考えていませんでした。所詮外国語大学の学生に、人を雇って運営を考えるというのは、全く持って難しい話です。

先輩が資金を偶然知人からもらったからやったとはいえもっと人に相談しながらやるべきでした。孤児院は年月が経つ中壊れてしまいました……。

他にもケニアで手伝ってくれている人からの裏切りがあったり、もういろいろ…、どうしても関わりたくてやっているボランティア活動だったのに、1人で住んでいるアパートの屋上に登ってはわんわん泣いていることが多かった気がします。

そんな失敗だらけの活動でしたが、ケニアのバッグを文化祭等で販売し売上を送金する活動は地道に続けていました。時折メディアが私たちの活動を取り上げて下さいました。

そんな中でも活動を続けられたのは「この団体があるから元気になれる。」「この団体がなかったら死んでいただろう」というお母さんたちからの嬉しい言葉があったからでした。

将来の夢はエスニック雑貨屋さんだ!と思っていたけれど…?

大学で活動を行いながら、私は将来エスニックショップの店を経営して、フェアトレードを行うのだ!と夢を描きました。

また卒論では、アフリカの政府が行ったエイズ政策をまとめていました。エイズに対する薬として、抗レトロウイルス薬という薬があるのですが、これをいかに広めていくかということを勉強していました。

そこで私に3つ目の転機、酵素風呂との出会いが訪れます。

「米ぬかの酵素風呂をアフリカのマリのいう国に作って、エイズ患者の人たちを酵素風呂に入らせて、エイズ患者の人たちが元気になった」という情報を耳にしたのです。

私はエイズは薬でしかよくならないと思い込んでいたので、病気に対してそういうアプローチの方法があるのかと驚きました。そして、その酵素風呂を持って行った岡山県の元気酵素風呂を訪ねに行きました。

酵素風呂に入ってみてびっくり、目がよく見える!その日はスコーンとぐっすり眠ってこれは身体に良さそうだなと感じました。

ものすごく酵素風呂に興味を持ちました。冒頭で少し触れましたが、私は長年アトピー性皮膚炎を患っていたので、これを改善できるならいいなと、コツコツ大阪の酵素風呂に通い始めます。

大学の夏休みなんかに集中的に通って、好転反応がすごく出て夜も眠れないくらい痒くなったりしましたが少しずつ肌が改善していきました。

お金のない私に、母が長年治らなかったアトピーが良くなるならと大学生には安くない酵素風呂の費用にお金を出してくれたんですが、今は子どもの健康を想う母の気持ちがよく分かります。

そして私の夢は、エスニックショップの経営から酵素風呂の経営に変わりました。エスニックショップの需要は少ない。これからの高齢化社会は酵素風呂だー!と。本当に酵素風呂との出会いは運命でした。

大学最後の卒業旅行も私はそのTumaini Nyumbaniに行って、バッグを持ち帰ってきました。「いつか酵素風呂をケニアに持ってくるから!!」とエイズ患者のお母さんたちに言い残して。

と同時に、このケニアの活動は私が一生関わっていくのだ。絶対に忘れないでいるのだと私自身に深く深く約束しました。

この気持ちは10年以上経った今現在でもとても強く続いており、全く変わっていません。それほどケニアの経験は私にとって強烈でした。

ブラック企業に入ってしまった経験(笑)

そして大学を卒業し、経営が学べる場所ということで私は広島の会社に勤めだしたのですが、これが完全にブラック企業で、思っているところと全く違いました。

中国から輸入した粗悪なおもちゃやら名刺入れといった雑貨を、道ゆく人から郵便局から工場やらへ突撃して訪問販売していました(笑)

今思えば多大な迷惑をおかけしました。多くの人の仕事の邪魔をしてしまい本当に申し訳ありません…!!変な度胸だけはつきました…。

広島での出会いで酵素風呂に勤めることに

広島の酵素風呂に訪れて、酵素風呂やりたいと話していたら、ラッキーなことに「あんたうちでアルバイトせんかね」と酵素風呂を経営している社長に言われ、新店舗でアルバイトすることに。

まだ23歳だったのに、やりだして間もなくその酵素風呂の店をほとんど一人で切り盛りする羽目になっておおわらわ!私は接客がとんでもなく下手糞でした。

私「お風呂気持ち良かったですか?」
お客さま「気持ちいいね~」
私「そうですか………じゃ、ごゆっくり~(汗)」

とそそくさその場を離れていました。酵素風呂も今ほど知られていない頃で、お客さんも少なく、経営状態はとても悪かったと思います…。

厳しい社長から態度や掃除について何度も何度も叱られました。厳しい上司ほどありがたい存在はないですね。おかげさまで成長できました。

3年そこで勤めて分かったことですが、勤め始めた時は私はすっごく上から目線でお客さんに接していました。接客業は下から目線です。この下から目線で人に接することを学べたことは私の性格にいい影響があったなぁと今では心から感じます。

酵素風呂の開業に向けて

少ない私の給料から毎月貯金して、酵素風呂の開業について考え始めます。場所をどこでやるかということで周りの人に相談しまくっていたんですが、そりゃ土地がある岐阜の実家がいいに決まっていると。

当時私の家族環境は、詳しくネット上に書くことはできませんが、実はあんまりいいものではありませんでした。特に私と父との関係はよくありませんでしたね。

なので実家で酵素風呂を開業することに少し抵抗がありました。

この辺のことを広島の酵素風呂のお客さんに相談したら、

「あんたアフリカにボランティアに行き、酵素風呂で人のためになる仕事をしているというのに!!自分の大事な家族がそんなんでどうするんだよ!」

と言われ、ものすごくその言葉がぐっさーーーー!!と心に突き刺さりました。

そして多大な葛藤の末、私はここら辺から思い切って電話で父に今までのことを謝ったり、開業について相談したり、母ともよくよく話をしたりと、家族という家族に広島から電話で連絡を取って相談しまくりました。

今思い出すと、この時家族に連絡しまくっていた私はものすごいエネルギーを発していたように思います。酵素風呂を開きたい、それよりも家族みんなが心を合わせた状態でいたい。強く願いながら電話口で必死に家族に話していました。

そして、平成22年に実家の八百津町に米ぬか酵素風呂 健康風呂ゆかりをオープンすることになるのです。父が退職後に趣味で楽しむ木工所を、酵素風呂に併設して。

酵素風呂を実家でオープンするということは、家族の協力なしではできませんでした。私にとってもですが、家族全体にとって、とてもいいことだったなぁと振り返ります。

家族関係は私が中高生の頃と比べるとぐんと良くなりました。両親には本当に、感謝の気持ちでいっぱいです。

開業してからの人間関係作り

開業して最初はお客さんはからっきしでしたが、私はこれは絶対に流行る。多くの人が絶対に必要とすると確信していたので、心配していませんでした。

が、何となく実家に帰ったばっかりで人脈がないのが心細く、私は人からの紹介で、経営者モーニングセミナーを開催している朝活に参加し始めました。

倫理法人会というあやしい名前の(笑)社団法人です。日本全国に支部があります。実際様子はとてもあやしく、ろくでもない感じの方もたまにいらっしゃいましたが、基本的に本当に気持ちのいい社長様ばかりでした。

なかなか家庭の深い事情まで、語って下さる方はいらっしゃらないですよね。経営者モーニングセミナーでしたが、家庭の話が多くて、仕事よりお客さまより家庭が一番なんだという大切なことを学べました。

アフリカのボランティアをとにかく継続して行っていきたかったので、私は周りの方々にお願いしながら、いろんな地域のモーニングセミナーでケニアの話をさせて頂きました。

そんな中!ありがたいことに1人の女性が私の話を親身に聴いてくださって、これはイベントを開いてボランティアの収益を伸ばさないといけないとイベント開催を持ちかけて下さいました。本当に、人との出会いは宝物ですね。

すごく大変だったのですが、「わくわく祭り~みんなの笑顔をアフリカに届けよう~」というイベントを岐阜市で5回も開催することができました。出店者様や協賛社様、いろんな人の優しい気持ちで出来上がったあったかいイベントでした。

婚活、結婚、そして育児…

そんな仕事やボランティアで一生懸命だった折、私は20代後半。「婚活」という壁が立ちはだかります…。

まぁ婚活の参ったこと参ったこと。婚活は26歳くらいから始まり3年くらい低迷して、29歳で私は今の主人と出会い、結婚しました。

主人は私にとって本当に理想の人で、今理想的な結婚生活を送れています。失恋して泣いていた時の過去の私に、「ちゃんと出会えるからね」と励ましてあげたいです。

主人と結婚したらもう行けなくなるかもしれないということで、結婚する前に最後に2週間ほどケニアにボランティアに行きました。

ケニアのお母さんたちは本当に私の結婚を喜んでくれました。そして彼女たちはそう、私が22歳の時に発した私の言葉を信じて酵素風呂を待っていました。

私は孤児院建設という失敗をして、あのような失敗を二度としたくなかったので、酵素風呂をケニアで経営することは今の私には難しいと諦めました。

代わりに私にできることとして、お金のかからない方法で健康になれる方法を伝えてきました。具体的に、笑いヨガや、プルプル気功、簡単なマッサージや、ちょっとした食事に関する知識、引き受け気功などを伝えてきました。

(↑このようなイラストを描いて本にしてケニアのお母さんたちに渡し、説明してきました)

かなり評判がよく、血圧が下がって気持ちよく過ごせるお母さんも現れて、私の小さなワークキャンプは成功に終わりました。飛行機雲を見ると、またケニアに行きたい!!と思います。

主人と結婚し、ありがたいことにすぐに第一子を授かり、今度は「育児」の壁が立ちはだかります。人生壁だらけ!

激しく泣いて手がつけられない夜泣き、離乳食を開始した後、収まらない赤ちゃんの湿疹…私はいろいろ本を買ったり勉強したりすることで、夜泣きや子どもの湿疹をうまく乗り越えることができました。

詳しくはこちらに記事にしました。
夜泣き対策の全体について
西原式育児で赤ちゃんのアトピーが改善!

そして育児しだしてからがなかなかボランティアに裂ける時間がない…人にも会ったりできない…ということで、私は家でちょっと収入を得ることができないかなと在宅ワークを検索していました。

ブログについて

そんな時、ブログで稼いでいる人たちがいるということを知り、これは本当の話なのかといろいろ調べました。

なんと読んでも全然おもしろくない記事を書いている人がかなり稼いでいる!(勿論稼いでる人の大半は面白い記事書いています。)これは絶対私にもできることだと確信しました。

そして、サイトタイトルを私の人生のテーマである「健康」(へるしぃ)「アフリカ」(どんどこ:アフリカの太鼓の音)をくっつけて、へるしぃどんどこらいふとし、ブログを運営しています。ちょっと私ののほほんとした感じも伝われば嬉しいです。

ブログの内容は、主に健康や育児について書いています。アフリカについては、現在育児中で渡航していないので後回しになっていますが、アフリカについても今後少しずつ書かせて頂こうかと思っています。

アフリカの支援が気になる方はこちらからご覧ください。(記事:アフリカのケニアの支援であなたにも簡単にできること)あなたにも日常生活の中で簡単にできる支援があります。

夜泣きで一日一日必死で過ごしているお母さんたちがいます。赤ちゃんのアトピーに、こっちまで気が狂いそうになっているお母さんたちがいます。健康に対する本当の情報を求めている人がいます。

私は酵素風呂の仕事や育児をする傍ら、自分自身や子どもの健康に関していろいろ試行錯誤する中で体調をよくする方法を模索し、私や娘の様々な体調不良を改善してきました。

このブログを通して、目一杯そのことを皆様にお伝えしていきたいと考えています。

また岐阜県のオススメなへるしぃすぽっとについてもご案内していきたいと思います。

応援どうぞ!よろしくお願いいたします。

長いプロフィールを読んで頂きありがとうございました。

アフリカの支援が気になって下さった方はこちらも是非覗いて下さい。→アフリカのケニアの支援であなたにも簡単にできること

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